


創業は昭和22年。終戦後、父親の義一さんが、特攻隊の生き残り組として、下荒田で青果業を開業。現在も元気に店の手伝いなどこなす義一さんは当時、単車でリヤカーをひき、吉野市場あたりまで出かけ、仕入れをしたとか。売買参加者の権利(競り権)を取得したのが昭和40年。坂元、城西、薬師町などでの小売を経て、ここ20年間は9割方納め業務を自宅で展開、小売は1割程度。うち野菜が7割、果物3割。こだわりは、「信用と信頼」を第一とし、「いい品物」を小一時間下調べをして吟味し、仕入れを実行すること。2代目の義人さんは、配達時など、高齢化する地域のお客様の身の周りのサポートに気を配り、地元消防団員としても活躍中。
学校・病院など給食用の青果物納めが主で、タバコ・米も扱う。その日のうちに新鮮な青果物をお届けすることにこだわる。商圏は車で15分以内を基本とし、お客様の声を大切にする。現在、九州青果食品小売商組合連合会の青年部会長を務める。
男盛りの夫に先立たれて25年、女手一人で、病院や学校給食用の納めもの中心の早朝の競りを続ける。最近は競り仲間の若い男性陣が快く声をかけながら協力してくれ、大助かりとか。昔の和気合い合いに満ちた競り風景を懐かしむ。
63年続き、自らが納得する商品しか仕入れない老舗の青果店。2代目社長(現在、鹿児島市中央卸売市場青果食品協同組合の副理事長)が店を引き継ぐとき、市議会議員などを務めた父親は「自分のことだけでは、やっせん!地域・町内会・通り会のことをしっかりやれ!」と言い渡す。現在、奥様、3代目の子息とともに、店内にある「茶いっぺ(一杯)コーナー」で地元の人々とのコミュニケーションに心を砕く。
昭和48年創業。伊集院中川出身の現社長は、同郷のよしみで仲卸会社に勤務後、新たな仲卸商店の仕入担当者として仕入れの腕を磨く。以後独立し、緑ヶ丘団地内の旧緑ヶ丘マーケット内で26年間青果店を営業し、近くの現個店に平成13年に移転。昭和53年から、子息逸郎さんも店で働き始め、店主は果物専門、逸郎さんは野菜専門で仕入れを担当。納め物中心のお店のこだわりは、「新鮮さ」と「味」と「生産者」。「味」のレベルや「質」にムラが出ないように気配りをするとのこと。逸郎さんは、地元商店街通り会「みどり会」の副事務局長を勤め、青果食品協同組合の青年部でも活躍中。定休日は、第2・4・5週の日曜日。
四半世紀前の創業当初から青果と花を扱う小売り100%のお店・フラワーフルーツは、玉里団地の奥様方に固定客が多く、夕方の買物のついでに、近くの坂元墓地にお墓参りするための花を求めるお客などで賑わう。お盆、正月、お彼岸など青果物は勿論のこと、特に花の売れ行きがぐんと伸びるので助かるとのこと。現在の平均的な売上は花が3割、野菜・果物で7割を占め、時期によっては花が5割前後になる模様。青果物など特に「本日仕入れ」の札表示を掲げ、お客様とのオープンな会話の中で「いいもの、美味しいもの、仕入れてみたが見た目ほど美味しくないもの」などをさりげなく伝え、顧客との心の通ったコミュニケーションを第一とするフラワーフルーツの店内は、明るさと元気な会話で溢れている。
34年前から専門店が寄り添うスーパーを開業。専門店仲間の魚屋さんが閉店後、スーパーの大半を貸し店舗に改造。青果個店として営業を継続し、特に、鹿児島市の高齢世代などが好む佐多岬のツワほかの昔懐かしい食材、地元の変わった野菜にこだわる。
ストアで働いていた店主が独立し、小売り青果店として創業したのが昭和42年。子息も18年間勤めていた市役所を辞め、家業をついで今年で3年目。小売りを辞め、業務用卸の専門店として営業を始めたのが1年半くらい前。店主と交替で市場に仕入れに出かける。現在、朝は4時半に起床し、市場では業務用の前取りを終え、朝7時には帰り着く。野菜が9割、果物が1割の比率で、学校や病院施設への納めが主力。クライアントからの要望で、値段もさることながら品質のいい青果物の仕入れに特にこだわる。
高齢化、世代交代の進む薩摩団地の台所を支える老舗スーパーマーケットとして40年間、地元に貢献。学校・保育園への納め物が売上の3分の1を占める。青果物売上の8割が野菜、2割が果物。 薩摩団地や地元住民の方々の高齢化に伴い、青果物と同じくらいに自家製の惣菜の売れ行きが良く、いまでは「みやストアー」には欠かせない定番商品となっている模様。
西伊敷町の岡之原市場内で青果店を構え、「安心・安全・優しさ」にこだわり、年々高齢化するお客様への徹底サービスを33年間追求。現在、鹿児島市中央卸売市場青果食品協同組合の理事を務めながら、毎日100キロを車で駆け回り、納めものを回転。「当日仕入れ、当日配達、極力美味しく、新しいものを納める」ために、徹底した在庫管理に努める。